できる論
趣旨
組織で働く上で、よく飛び出す「それはできない」という言葉を「こうすればできる」に変えるためにはどうしたらよいかについての考察である。
議論の背景
よく「これはどうだろう」という話を持ちかけた場合に、「そんなことでききない」という反応がある。明らかに出来ないこと、例えば「人の筋力のみで飛ぶロケット」などは論外だが、往々にして「どうだろう」という話の裏には様々な理由があり、当然ながら実現度もなくはない。問題はそうした理由を確認せずに「出来ない」と決定してしまうことである。この弊害については周知のとおりだが、問題は何故「できない」と断定するかである。
「できない」と思考を遮断する背景
断定する背景にはいくつかあるが、根源にある理由は、何がしかの理由で語り手とのコミュニケーションを切り上げたいためである。
例えばその議論は過去に自分が行ったが上司から却下された「苦い思い出」がある。議論の軸があいまい、または議論の思考が理解できないからかったるいのかもしれない。話を聞くよりより重要なことに心骨を注がなくてはならないのかもしれない。もしかしたら嫌っているからかもしれない。いずれのケースにも共通するのは、自らの思考を遮断することで、自らの思考リソース、感情処理リソースの節約をしようということである。極端な話、相手に対して「あなたは私の邪魔をするな」といっているのと同じなのだ。
「できない」により失われるもの
人的コネクションのレベルダウン
ここで問題なのは、自分が何を目的として、役割として、例えば会社に勤めているか、その団体に属しているかである。部下に対して上司が行ったのであれば、部下はその上司に対しての提案する心づもりポイントが1つ減るだろう。上司が部下に言われたのであれば、部下は上司にとっての心強い見方ではなくなる。同僚に言われたのであれば、明日からの挨拶のトーンが下がるだろう。言葉を発した側から見たら一時的なものであっても、相手にとっては恒久的なものになる危険を秘めているのである。
思考力の低下
英語を十分にできなくても英語しか話せない人とコミュニケーションはとれる。特にこの傾向はお互いに英語が母国語でない場合に顕著である。理由はお互いに「自分は不得手だから意識を集中しなくては」と認識するからである。相手のメッセージを自分の言葉に解釈しなおすということである。このような「言い換え」は、脳の咀嚼力をフル活用することを要求する。また思考力は鍛えないと衰える一方である。つまり自らの思考力強化という人材開発の機会を失っているのである。
自らの行動スタイルを変える機会の喪失
ちなみに自分に語りかけている人の話を聞き、何がしかの決定を下すのに必要な時間はどの程度だろうか。5分か10分か。その時間を割くだけの時間がないのであれば、そもそも日常の活動自体に問題があるのかもしれない。
また人の思考パターンで、深く掘り下げて考えるタイプと、様々な情報を得て発想するタイプの2つがある。前者のときであれば、大抵提案者が声をかけるのを遠慮するだろう。それでも声をかけてくるのはそれほど緊急のときか、または深く考えていると見えなかったからだ。もしかしたら不適切なところで思案していたからかもしれない。
「できる」の効用
明確な悪意のもとで提案したのでなければ、「それできるね」と言われた側は、その信憑度はともかくとしてうれしいはずである。当然うそをつくのは良くないので、本当にできるときでない限り、「それできるね」だけで終わらすのは良くない。すると「いいね、だがここはこうしよう」や「いいね、でもここは分からないなあ」という「Yes,But」という表現に収斂する。
元GE会長のジャック・ウェルチの行った「ワークアウト」という活動がある。直訳すれば分担の決定、である。実際に行ったのは管理職にクリティカル・シンキング能力を強化する必要があると気づかせる機会を作ったことである。(それが直接人事考課につながるところがGEである)
つまり「できる」と考え、表現することは、状況理解の迅速化と、対処のロジック構築能力の強化につながるのである。