仏教に興味を持ったのは手塚治虫の漫画で関連する用語が頻繁に出てくることと、相田みつをが仏法を学んだからこそあのような言葉が出てくるんだということを知ったからである。
仏教といえば、日本で一番広く伝わっている宗教で、無宗教である自分達の生活にも(何かはわからないけど)少なからず溶け込んでいるものだ、ぐらいしか知らない。あの創価学会も大元は仏教であるようだ。
仏教の開祖である釈尊は王家の生まれであるにもかかわらず、人々を救うために様々な修行を行う。でも、ある出来事をきっかけに苦行をしても意味がないことに気づく。そこで釈尊が考えたのは「中道」という、どちらか極端に偏るということをせずに何でも受け入れる考え方である。
他、苦には正しい行いをすることで対処できる。しかし煩悩が邪魔をするのでそれを知ることが重要である。また、すべての人生を肯定するこのような発想が、仏教の慈悲である。
悟りを開くためには次の3ステップがおすすめらしい。
・諸行無常:形のあるもの(諸行)はつねに変化しつづけ、同じところにとどまることはない(無常)
・諸法無我:すべてのものは、因縁によって生じたものであって、他人や多くの自然物がいてこそ自分がいるという真理
・涅槃寂静:一切の煩悩から離れて、迷いや苦しみのない心の状態
悟りにいたるとこの世が「空」であるという真理にいきつく。空の概念を知ったものはすべての執着をはなれて自然のままに生きていくとされる。
釈尊はこのような教えを説いて、広めていった。釈尊の入滅後も弟子によって伝えられていったが、何世紀以上も口伝えによって伝えられていった。ということは、その間に釈尊の教え以外のものが混じったり改変されたりしたのかもしれない。
その後に大乗仏教と上座部仏教に分裂し、さらにいくつかの宗派に分かれる。様々な解釈がされたために互いに矛盾する教えが生まれるようにもなる。根幹は同じだけれども、釈尊が最初に行った教えとは異なるものが多い。
「南無阿弥陀仏」と念仏だけ唱えれば大丈夫、というのは僕は解せない。当時はまだ苦しい生活を続ける人が多かったのでより多くの人々を救うためにはそのようなわかりやすい方法しかなかったのかもしれない。「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのとんでけー」と同じプラシーボ効果的なものなのかもしれない。
人から教えられたものを鵜呑みにして機械のように応えるのは、ある段階までの上昇は可能だが、それ以上の上昇が望めない。最高の状態まで到達しようと思うのならば、自身により生み出すことが重要であると僕は考える。
最低限の生活は保障され、暇な時間が増え、考える時間もたっぷりある人にとっては念仏だけ唱えるというのは非常にもったいないことだ。
釈尊の生き方に感銘を受けたので、次は手塚治虫のブッダ読みたい