これは深い。
499 名無しさん@初回限定:2008/10/09(木) 21:49:40 ID:BA/OOesD0
・サンクトペテルブルクの近代人の話
「人生は干しきってカピカピになったレーズンにマヨネーズとバナナをあえたものである。」
今日我々は、サンクトペテルブルクの近代人の功績を抜きにして人生を語ることはできません。名前も知られていないこの近代人こそ、人生について徹底的に考えぬいた人間の一人です。
彼は出版社の人間でした。シェイクスピアのマクベスを読んだ彼はいたく感動し、人生についての本を書こうと決意しました。
彼はまず、人生は影法師のようであると考えました。彼はペンをとり、原稿用紙に「人生は影法師のようである」と書きました。しかし、彼は同時に、人生は小説のようであるとも考えました。
そこで彼は、影法師のようであると書いた紙を破って捨て、新しく二千枚の原稿用紙を用意しました。彼はまず、原稿用紙に「人生は” ”のようである」と書きました(もちろん、彼の国の言葉で)彼は来る日も来る日も「人生は” ”のようである」と書き続けました。
原稿用紙二千枚すべてを「人生は” ”のようである」で埋め尽くした彼は、再び最初のページに戻り、今度は辞書を手に取り、名詞という名詞を、上から順に片っ端から原稿用紙の空白へ書き加えていきました。
「人生はアフリカアリクイのようである」
「人生はそろばんのようである」
「人生はアワビのようである」…
そして二千枚の原稿用紙を全て埋め終えたとき、彼はようやく満足し、全て束ねて「人生論」と名づけ、本にして出版し自分の書店に並べました。
「人生論」は全部で百部売れました。
500 名無しさん@初回限定:2008/10/09(木) 21:51:12 ID:BA/OOesD0
しかし、彼は友人が「人生は巨大なサンドイッチである」というのを聞いたとき、ひとつの単語だけでは人生を言い表す事はできないと考えました。
そこで彼は次なる方法として、名詞にさらに思いつく限りの形容詞を書き加える事にしました。これは、決して簡単な作業ではありません。
しかし、奥さんや息子の協力も得て、彼は毎日、気の遠くなる量の「人生は” ”のようである」を書きました。
彼の新しい人生論は一万ページにも及びました。彼はその全ての空白に名詞と形容詞の組み合わせを埋め終え、そこでようやく彼は満足し作業を止め、再びまとめて本にしました。本のタイトルは、「新人生論」でした。「新人生論」は全部で五十部売れました。
彼はしかし、自分の限界に苦しんでいました。彼は夢の中で「人生は細い糸に似たもやしのような野菜である」という言葉を思いついたからです。
どんなに言葉を継ぎ足しても、人生を言い表す事は出来ないのだろうか…
彼はついに病に倒れました。それでも彼は人生について考えることをやめませんでした。
ある日、臨終の床で彼は友人の数学者の論文を読み、すばらしいインスピレーションを得ました。彼は急いでペンをとり、原稿用紙に忘れないようメモしました。そのメモを見て彼は大いに満足し、静かに眠りにつきました。彼の墓には、彼の最後の言葉が刻まれています。
「人生はXのようである(Xは任意の言葉)」
――ある近代人
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51376...
人生とは一言で言い表すことができない。ということよりも、比喩の無意味さを説いた文章だと思った。(数学者だったら、だから数学は素晴らしい!って思ったかも)
別に人生じゃなくても他の言葉でもいいよね。
「愛はお餅のようである」
「仕事は家庭の味がするカレーライスのようである」
とかとか。一般化すると「XはYのようである(X,Yは任意の言葉)」ですね。抽象的な語に対しては適当な具体的な単語をあてはめればなんとなくそれっぽくなる。なんか深いようで、深くない。うすた京介的だ。